新編立川市史関連展示、好評につき今夏より再び開催
「軍都立川の前線と銃後-砂川村・立川市の公文書から-」

昭和20年(1945)の砂川村と立川市の公文書(歴史民俗資料館蔵)
立川市域では、大正11(1922)年に陸軍航空部隊の拠点として立川飛行場が開設され、飛行場の周囲に軍事関連施設や軍需工場が集まり、第二次世界大戦勃発前までに立川のまちは「軍都」として発展していました。同時に米軍の空襲目標にもなっており、大戦末期には立川駅北口一帯で空襲の延焼を防ぐための空地をつくるべく建物の強制疎開が行われ、人員疎開により、立川市から約1万人が転出しました。砂川村・立川市は昭和20(1945)年に十数回の空襲を受け、陸軍航空工廠(こうしょう)や立川飛行機工場などを目標とした空襲の巻き添えにより、学校・神社・民家も大きな被害を受けました。
今回の展示では、おもに大戦末期の昭和19年・20年の砂川村・立川市の公文書を画像で紹介します。
・立川市史編さん事業に関する詳細はこちら
午前8時30分から午後5時(第2・第4月曜日は休館)
会場 砂川学習館 1・2階(立川市砂川町1-52-7)
申し込み不要でご覧いただけます
*令和8年2月~3月に市役所で開催した展示と同内容です。
・立川排水路開削などの資料では、戦時中の急速な発展に対応した都市整備の様子がわかります。
・空襲被害の見舞状や空襲に伴う軍需工場の社葬案内など、空襲直後を記録した貴重な資料も残されています。






1.砂川村役場落成式紀念 大正14(1925)年
2.東部第一三三三一部隊公印の印影。昭和19(1944)年11月「〔昭和十九年度庶務関係〕」(旧立川市役所文書<総>2-4) 戦争末期には防諜強化のため通称号が使われた。工兵第二六大隊のことで、立川市富士見町に駐屯した。
3.中野砂川村長宛て林調布町長からの見舞状 昭和20(1945)年4月「昭和二十年 庶務書類綴」(旧砂川村役場文書28-58) 4月24日の空襲の翌日に書かれたもの。砂川国民学校が全焼し、砂川村民15人、砂川以外の住民9人に加え、砂川八番方面などへ避難中の立川飛行機従業員89人が犠牲となった。
4.陸軍航空本部の土地借上通達に添付された図 昭和20(1945)年1月「昭和二十年 庶務書類綴」(旧砂川村役場文書28-58)
5.偽装のため桑畑として描かれた立川飛行場の地図。昭和19(1944)年6月「昭和二十年 庶務書類綴」(旧立川市役所文書<総>2-6) 6.の飛行場や航空技術研究所などが桑畑として描かれている。
6.立川町全図における立川飛行場 昭和15(1940)年11月「昭和十五年其ノ二 庶務関係綴」(旧立川市役所文書<総>7-7) (1.~6.:立川市歴史民俗資料館蔵)
TEL042-523-2111(内線4046)
Eメール:chiikibunka-t@city.tachikawa.lg.jp
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昭和20年(1945)の砂川村と立川市の公文書(歴史民俗資料館蔵)
立川市域では、大正11(1922)年に陸軍航空部隊の拠点として立川飛行場が開設され、飛行場の周囲に軍事関連施設や軍需工場が集まり、第二次世界大戦勃発前までに立川のまちは「軍都」として発展していました。同時に米軍の空襲目標にもなっており、大戦末期には立川駅北口一帯で空襲の延焼を防ぐための空地をつくるべく建物の強制疎開が行われ、人員疎開により、立川市から約1万人が転出しました。砂川村・立川市は昭和20(1945)年に十数回の空襲を受け、陸軍航空工廠(こうしょう)や立川飛行機工場などを目標とした空襲の巻き添えにより、学校・神社・民家も大きな被害を受けました。
今回の展示では、おもに大戦末期の昭和19年・20年の砂川村・立川市の公文書を画像で紹介します。
・立川市史編さん事業に関する詳細はこちら
概要
会期 令和8年8月5日(水)から10月20日(火)午前8時30分から午後5時(第2・第4月曜日は休館)
会場 砂川学習館 1・2階(立川市砂川町1-52-7)
申し込み不要でご覧いただけます
*令和8年2月~3月に市役所で開催した展示と同内容です。
見所
・飛行機疎開のための土地の借り上げにかかわる資料からは、地域が軍に協力する様子がうかがえます。・立川排水路開削などの資料では、戦時中の急速な発展に対応した都市整備の様子がわかります。
・空襲被害の見舞状や空襲に伴う軍需工場の社葬案内など、空襲直後を記録した貴重な資料も残されています。
展示資料のご紹介






1.砂川村役場落成式紀念 大正14(1925)年
2.東部第一三三三一部隊公印の印影。昭和19(1944)年11月「〔昭和十九年度庶務関係〕」(旧立川市役所文書<総>2-4) 戦争末期には防諜強化のため通称号が使われた。工兵第二六大隊のことで、立川市富士見町に駐屯した。
3.中野砂川村長宛て林調布町長からの見舞状 昭和20(1945)年4月「昭和二十年 庶務書類綴」(旧砂川村役場文書28-58) 4月24日の空襲の翌日に書かれたもの。砂川国民学校が全焼し、砂川村民15人、砂川以外の住民9人に加え、砂川八番方面などへ避難中の立川飛行機従業員89人が犠牲となった。
4.陸軍航空本部の土地借上通達に添付された図 昭和20(1945)年1月「昭和二十年 庶務書類綴」(旧砂川村役場文書28-58)
5.偽装のため桑畑として描かれた立川飛行場の地図。昭和19(1944)年6月「昭和二十年 庶務書類綴」(旧立川市役所文書<総>2-6) 6.の飛行場や航空技術研究所などが桑畑として描かれている。
6.立川町全図における立川飛行場 昭和15(1940)年11月「昭和十五年其ノ二 庶務関係綴」(旧立川市役所文書<総>7-7) (1.~6.:立川市歴史民俗資料館蔵)
問い合わせ
立川市文化スポーツ部 市史編さん室TEL042-523-2111(内線4046)
Eメール:chiikibunka-t@city.tachikawa.lg.jp
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